善良 そして 邪悪

 自分は他人からみたらどんな風に映っているのだろうか?そして、あなたはどんな人なんだろうか。

 年が明けて既に一月も後半に入りましたが、そんなことを考えてみました。

 この地上に人生を過ごす人のほとんどは悪人でも善人でもない、グレーな存在なのではないだろうか。

自分はそんなに悪いことはしていないし、かと言って善行をいつも積むような心がけでもないし、では一体どっちなんだ、と聞かれても答えに窮するか、開き直るかのどちらかではないだろうか。

 毎日を過ごす中で、とても善い人に出会うことは確かにある。絶対に人の悪口は言わないし、いつも相手のことに気を掛けていて、それでいて自慢もしないし常に素朴で素直な人は確かにいる。たとえ白タクのぼったくりにあってお金を巻き上げられても、「あの人はあの人でお金に困っていたのかも知れないし、仕方が無いことだね。」と逆に心配してあげることすらある。

 ただ、仕事などに関しては逆にいろいろと問題があるようで、影で様々に使えないだの迷惑な奴だのと言われている人もいるようです。二つ良いことはないのでしょうか。仕事の良し悪しと人間の善良さとは相関していないのでしょう。

 しかし、どうすればこんなものの捉え方や受け止め方が出来るようになるのか、見習いたくても出来るものではない。むしろ、生まれつき、またはよほど同じくらい善良な親に育てられた、そのどちらかかと思わないと理解できない。自分にはとても同じには出来ない、越えられない何かを感じます。

 そして、こういった善い人はあまり有名でもなく、地道に生きていて、お金持ちでもなく、時折ふっと話の中に登場しては、記憶の彼方に去っていく。それでいて、善というものとは一体何なのかという問いを、他人の心の中に貼り付けてゆく。そんな印象だ。

 その逆に、他人の人生を踏みにじっても何とも感じることもなく、犯罪に手を染める人も確かにいる。善良そうな素振りで、目つきだけはギラギラと鋭く、言葉巧みに人を欺いて詐欺を働く人もいる。

 こうした人は犯罪という括りで区別することも出来る。だから近寄らないようにすることで身を守ることは出来る。

 だが、日常で最もやっかいなのは、普通の人の顔をして、悪意を持った行為を何の呵責も無く行って、しかも狡猾に隠蔽して何事もなかったかのように振る舞う人が実際にいることだ。それは普段の職場や学校、友人の中にもいる。

 いつもの仕事のフローのように裏工作のようなことを行い、自分と利害の合わない相手を貶めたり、裏で嘘の噂を流したり、高みに印象操作を行って、自分の縄張りや利害を守ろうとする。しかもこれらを何が悪いのか自覚もなく平然と行っている。

 政治の世界も、職場の中にも、そして何より国際関係でこうしたことは平然と行われている。国民を従わせるための手段として行う国もある。

 ここまで書いていると、それなら自分はどうなんだ?と自分に問いかけでみる。霊的に人の役に立ちたいと毎日朝に祈って、家を出て職場に向かい仕事に揉まれて、夜に帰宅する。家族と話をして眠りに就く。その中で、一体全体 自分はどう思われているのだろうか?どんな風に映っているのだろうか。

 狡猾に立ち回る人は今も周りにいるが、もしかしたら相手から見て自分が狡猾な奴、利害を損なう奴と映っているからこそ、嫌な体験をしているのかもしれない。無意識のうちに自分もなにか本能的に利害を守ろうとする行動をとってはないだろうか。

 毎日沢山の人とすれ違うが、その全員にそれぞれの人生がある。いろんな泣き笑いを経ているが、みんなだいたいは無表情ですれ違ってゆく。どんな人なのかは分からない。すれ違う人にあまり関心を持つ事は普段はないのだろうが、人は皆 肉体を用いて自我を表現している霊なのだと理解するようになると、違った見方も出てくる。

 すべての人は善良な部分と邪悪な部分の両方を持っている。自分はどんな人間なんだろうか?と考えたとき、どんな性質を持った霊なんだろうかということと、地上を過ごすための道具としての肉体をどれだけ霊的に使えているのかという事がクローズアップされてくる。

 喜怒哀楽という人の感情のパターンを現す言葉はあるが、憎という言葉はない。愛という言葉もない。愛と憎しみは感情ではなくて、心の働き動きだから含まれないのでしょう。人の善良と邪悪は、詰まるところ愛と憎しみをどう扱うかによって決まってくると私は考えています。

 愛を本来の姿の愛として普通に平然と表現している人こそが善良な人なのでしょう。でも本人は愛を実践しているなんて自覚はないのかもしれません。

 その逆に、嫉妬や欲望によって憎しみが勝ると、その意識のパターンは当たり前の行動として狡猾なやり方で日常の中で表現されてゆくのでしょう。きっと同じように本人に悪をなしている自覚はないのです。

 心の働きを霊的に正しいかどうか、地上の物質主義的 唯物的に正しい?かどうか、どちらに眼を向けるかどうかで、人の善良と邪悪を捉える見方は変わります。

 自分は霊なのだ、この肉体は地上を旅するための道具なんだと認識することで、それまでの世界は変わります。霊的に目覚める事は、嬉しい面もありますが、気づいたことで却って今までの自分に嫌悪を覚えて悔やむ気持ちも生まれます。

 自分は他人から見てどんな人なんだろうか? それは霊としてどう肉体を扱っている人なんだろうかということです。そして、世の善良な人とは、そんなことを認識させるために敢えて生まれてきた高い霊なのかもしれません。

 ビジネスで成功すること、お金持ちになること、高い地位に就くこと、容姿端麗な相手と結婚すること、そんなことはこの地上的なものであって、人の善良さとは何の関係もありません。むしろ邪悪さに傾く危険性を常に孕んでいるものです。

 すでに年が明けて2019年になりました。宇宙の流れからは一年など塵のようなものです。地上を旅することは。この365日の毎日を人間として悩んだり苦しんだり笑ったり怒ったりしながら、何かを学んでゆくことです。

 果たして自分は霊として自覚を持ってどれだけこの毎日を過ごすことが出来るのだろうか。毎日を毎月を、そして毎年を終わった終わったと過ごしている間に、少しずつ道具であるこの身体はいつか機能を失って駄目になる日に向かって歩んでいるのです。それまでに自分はどれだけ霊としてこの身体を使いこなせるのでしょうか。

 人間の善良さと邪悪さ、霊的なものと物的なもの。地上的な方向に流れるのはたやすいが、霊的に得るものは少ないということです。

 また一年、あっという間に過ぎてゆきますが、霊としてなかなか成長できないなと悩みながら、少しでも人の役に立てるように、そう願い祈りながら過ごしてゆくこととします。

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