前世を知ると安心?

 人は何処から来て何処へ帰って行くのか。

 人は時折、不安とも期待ともつかない疑問を感じることがあります。

 人は霊として肉体を使って、この地上を旅する存在です。しかし自分で決めた旅の目的と学ぶべき事は無意識の中に埋没している。ほとんどの人は霊的なことに意識を向けることもなく、この地上を旅する事よりも、この地上の住人であることに何の疑問も抱いてはいません。

 毎日の暮らしの中で、自分を振り返ると。その平凡さ、地味さ、見栄からかけ離れた たわいもない姿は認めたくもない、目を背けていたい、そんな感じなのではないのでしょうか。

 本当の自分はこんなものではないんじゃないか?と感じるときに、どこかで聞いた輪廻転生の話などを思い出して、自分の前世に興味を持つ人も多いのではないだろうか。

 巷の霊能者?のようなタレントが時折テレビ番組で、芸能人の前世を、中世のお姫様や王様、高名な歴史上の人物だとか言い当てて?いますが、そういった番組を見る視聴者自身も実はそんな前世だったらいいのにな、と感じる部分があるからこそ、そんな番組を見るのでしょう。これは前世療法と云われるものも同様です。

 しかし、人の前世を読み取ることの出来るような霊能力を持つことは、この地上ではほぼあり得ないことなので、そんな霊能力者タレントは欲目から適当なことを言っているのは明らかなのです。信じるに値しないのは言うまでもなく、前世を知ることの価値とはどれほどのものなのか疑いたくなります。

 そもそも自分の前世を知りたくなるそのココロは何なのでしょうか。私の感覚から言えば、劣等感そのものの現れです。お金を払って前世を見てもらって、もっともらしい大昔のお姫様やお侍さん、貴族だったと言われて、仮想的に安心して今の自分の中にある劣等感がほんの少し埋まるからなのではということです。前世がなんだったかはそんなに大切なことでしょうか。

 お金持ちや有名人に生まれることは、かえって様々な欲望に打ち勝つ為の試練として敢えて選んで生まれていると言います。それは、そういった地上の欲望でその更に前の人生で業(カルマ)を作っているからです。

 今の自分がかなり裕福だったり、地位や名声に恵まれていたとするなら、実はそれだけ厳しい試練を選んで生まれてきている可能性が高いのです。それだけのことを何かやった結果として今の裕福さや地位や名声を持つ人生を選んでいるのです。

 その正反対として、存在感のない人、寡黙な人、地味な人、恵まれない人、勝ち組でない人、地位も権力もお金もない人、この地上的には成功しているとは言えないような表現の存在は、実はそれまでに体験した前世の繰り返しでマイナスのバランスシートからはかなり抜け出ている事の現れなのだろうなと感じます。むしろ、そんな極端に恵まれていない自分に多少の安堵を覚えてもいいくらいだと思います。

  確かにどの人もそれまでの前世があってこその今世があるわけですが、前世を知ったところで今世では何の役にも立たないなのです。前世を終えた後に幽界霊界に戻り、霊的な成長と反省の期間を経て再び地上の人生でしか得られない学びを求めて次の人生に生まれてくるのですから、今この自分が過ごしている暮らしの中で、この地上の人生の中で一体何を本当はすべきなのかをもっと深く考えるべきなのです。

 極論に聞こえるかもしれませんが、前世が何だったかなんでどうでもいいことです。本当に大切なのは、自分が霊である事を自覚すること、その前提に立って自分をもっと他人のために役立てるように生きることなのです。限りある今の地上の人生を一生懸命に生きることです。

 前世を占ったり霊視?して適当な結果を知ることは、ただの自己満足でしか無く、潜在する劣等感を一時的に慰める程度のもので、かえって自分の霊的な成長には良い影響はありません。

 かく言う私も立派にできているわけでは無いのですが、私も霊的真理に出会うまでは、人生の勝ち組を目指して地上的な成功に憧れてばかりの人間でした。同時に、自分という存在に自信が持てないためなのでしょうが、様々な占いを試していた時期もありました。

 なぜそうしてしまうのでしょうか。それは、その日一日を精一杯生きているという気持ちに欠けていたからです。過去は変えることは出来ませんし、未来を思い煩っても仕方がありません。

 過去の失敗や過ちは生きている間にある程度は償うことは出来ます。そのための今という毎日があります。毎日の中の一瞬の繰り返しを自分なりに精一杯生きようと心がけて暮らすことで、未来は霊的に成長してゆく自分に繋がるのだと私は信じています。

 前世などへの興味から今の自分が占いにはまっているのなら、それは地上的、物質的な豊かさではなくて、内面的な、霊的な豊かさと成長に向けての一里塚に変えることが出来るのです。

 それは苦痛や困難を伴うことで乗り越えられる場合が殆どかも知れませんが、その人の耐えられるだけのものが与えられます。

 今日を生きようともがき苦しむことは、必ず明日へと繰り返し繋がってゆき、自分がこの地上でなさんとしていた目的を少しでも果たすことに繋がるのだと思います。

 『だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。』これはイエスの言葉です。シルバーバーチの霊訓でも同じ事が語られています。

 自分は地上を旅する霊である事を理解して、他人のために役立つ事を心がけて今日を生きてゆく、とても単純明快なことではないでしょうか。

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