日々煩悩と過ごす

この世の煩悩に私は負けそうです。

自分のなかにある利己的な、肉体的な、地上的な欲求を改めて感じて、霊的な進歩の無さに焦りを感じ、そして呆れました。

私はシルバーバーチの霊訓を知ることによって、霊的真理に触れることとなり、この世を肉体を持つ霊としていかに過ごすのかを日々意識して過ごしています。

その毎日の中で、肉体を持ってこの地上世界を過ごすが故に、様々な物的肉体的な欲望と付き合ってゆくことから逃れる事が出来ません。私はブログにこれまでに様々に書いてきています。しかし、私とて聖人君子ではありません。やはり毎日が地上的なものと、霊的なものとのせめぎ合いなのです。

もともと現世的な煩悩から離れて霊的に完璧な存在であるのなら、この地上に肉体を持って生まれてくる必要はないのです。不完全な存在であるからこそ足らざるを想い、我が身とこの世の有り様に危機感と嘆きを感じるのです。

毎朝、今日も霊的に少しでも正しく過ごせるように、少しでも世の中の人の役に立てるように、簡単ではありますが祈ります。やがて家を出て駅に行き、電車に乗り職場へ向かいます。ですが、家を出た直後から駅に着いて電車を待つ頃から、そして通勤電車に乗り人混みに揉まれる最中から、加速度的に地上的なものに飲み込まれてゆきます。

駅は人混みに溢れて、土石流のように人の流れはすれ違い、わざとぶつかるようにすれ違う人、平気で列に割り込む人、混んでるから仕方なく前に詰めるとわざと押し返してくる人、様々です。

席に座っても、肘を平気で隣に押し当てて平気な人、大きな音で音楽を聴いたり、お化粧をして酷いときはスプレーをしたりする人、降りようとする人がいても意固地に入口に立って邪魔になってる人、口を手で押さえもしないで何度も咳をする人、若い人がきちんと並んでいるのに、並ばないで平然と乗り込もうとするお年寄りの集団。

職場に着けば、いかに目立つかばかり考えている人、自分の利益や評価に繋がることばかりに狡猾な人、そしてそんな人達に暗示をかけられて、知らず知らずにいう事を聞かされて働かされている無関心な善意の人達。すべての人がそうだという訳ではありませんが、焦燥感を感じずにはいられません。

でも、自分が周りにイライラするのと同じくらい、自分も周りをイライラさせているのだと思います。限りなく自分もその一人なのかもしれません。押し返してくる人は、もしかすると押してきやがってと思っているから押し返すのでは。

こうして書いてみると、自分はどうも人のエゴを露骨に感じさせる事にイライラしているようだとわかります。人のエゴって一体どんなものでしょう。そんな疑問が湧いてきます。

人も動物、植物も、みんな身体を持って生きています。肉体を持つが故に、自分の属する種族や家族、そして自分自身を存続させて生き残ってゆく必要に駆られています。そのためには大なり小なり競争があって打ち勝ってゆかないと生き残れなくなります。己を利するための生き方、それが利己主義、利己心というものです。

この世しか見ない人は、人生は競争だ闘争だと捉えて、勝ち残ることにばかり価値を見いだそうとする人もいます。本屋に並んでいるビジネス書籍の中身は詰まるところこの考え方に基づいているものばかりです。

最近はブランディングと言って、いかに企業や個人のブランド力を上げて他と差別化してゆくかが流行っています。ブランド力を上げるために、お客様への対応で差をつけてゆきましょう、自己の内面を高めてゆきましょうと、盛んに謳っています。しかし、この根底にも他を押しのけて自分が生き残るという利己的な下心が丸見えなのです。

競争原理に基づく自己啓発で資格やスキルを学び、仕事に励み、高給を得て、肩書を上げて、立派な家に住み、高級車に乗り、子供は勉強が出来ていい学校に通い、いい仕事に就いて同じように歩んでゆく、最後は皆に看取られながら惜しまれつつ亡くなり、立派なお葬式をあげてもらって、人生を終えてゆく。遺産は残された親族に渡ってゆく。

果たして、その先にあるものに人はどれだけの意識を向けて生きてきたのでしょうか。この世のエゴに基づいた価値観で作られたものは、すべてが良くないものではありません。その意味と価値を変えてゆくのは、使い方次第だと思えないでしょうか。

高い地位や財産や名声を持つこと自体は悪いことでも何でもないのですが、人としてどう生きたのか、他にどれだけ与えることをしてきたのか、その過程が大切なのです。死後に帰る世界に持って行けないものにいくら力を注いでも、所詮は無駄なことなのではないでしょうか。

ビジネスの世界では利益を上げて組織を大きくしてゆくことが根本的な命題です。利益を上げるこ自体に問題はありません。しかし、その成功の陰には勝者と敗者がいます。つまりはこの世のエゴそのもの、ヒトの作り出したエゴイズムのシステムです。

資本主義と対を成すと思われていた共産主義に至っては、根底にあるのは憎悪と暴力と闘争を是とする唯物主義であり、この二つが混ざり合った国家資本主義と呼ばれる最悪のものが海を隔てた大陸で現在も強力にうごめいています。

果たして自分自身はどうなんだと思えば、やはり肉体を持つが故の地上的な欲求に飲み込まれていることに変わりはなく、人間の利己心が積み重なって最終的に国家レベル、地球レベルの害悪になってしまう事のスケールを想像してしまいます。

人間のいない自然では、ある種類の生き物が他の生き物を自分の利己的な目的のために絶滅までさせるようなことには至りません。適当なところでバランスが保たれています。しかし、人間の21世紀の有様を見ると、他の生き物を何千何万も絶滅させています。動植物の生きるためのエゴと人間のエゴは似て非なるもので、バランスを欠いた極めて危険なものかと思えてきます。

遂に激しい気候変動まで引き起こして、次の世紀まで人類の存続が危ぶまれるような愚かさは、人間の存在を知性に劣る他の生き物より以下の存在たらしめています。知性の使い方を完全に間違えています。

人ひとりなんて小さなものだから、自分ひとりくらい変えたところで、という考え方と、自分ひとりから変えていかなければ、と思う事には越えられない大きな違いがあります。

人間的なエゴ、利己心を曖昧な感覚から容易く肯定することは、最終的には抑圧と殺戮と狂気を行うおぞましい国家システムを許してしまうことに繋がります。大陸にある共産主義国家を知れば分かることです。そしてこれは現実のものとしてすでに今日まで60年以上も続いてしまっています。

人は肉体をまとって自我を表現する霊なのだということ、地上の人生は霊的な成長を目指して送る旅なのだという事を改めて認識することの重要性を、このブログを書いているうちに改めて感じることになりました。ここまで書いて本当に実感します、

人間の、人類の期末テストはもう翌朝に近づいています。準備の間に合わないことにやっと気が付いて一夜漬けで勉強を始めた私、そして人類が一体どれほどの進歩を残せるのか、そんな時代を生きているのです。翌朝にテストが迫っている事にすら気づいていない人がほとんどでもありますが。

人間の持つ利己心と、肉体のみに生きる動物植物の利己的な有様は、その行き着く先は全く異なるものです。人には勝ち負けではなくて、与え合うものです。自分にしてほしいと思うことを他人にもしてあげることです。利他愛を行うよう人が心掛けるならば、行く先にはましな未来があります。貧困や飢餓は今よりはずっと少なくなります。人とは争うのではなく、自分の中にある利己心と争うことを第一に考えれば、世界から戦争や殺戮はもっと無くなります。

通勤電車で感じること、職場やビジネスの場や、日常の中で日々起きている事は、国家レベル、地球レベルでなされている事の縮図なのであって、そこに人間の、自分という存在の利己心、エゴイズムがあること、そのことをまず知ることになりました。

地上の人生は自らの欲望、利己心とどう向き合って霊的に歩めたのかが、死後に帰還した幽界霊界で問われることになります。煩悩に負けそうになって悩むこと自体が、その歩みの一つなのですが、知るは易し行うは難し。悩むほどに自分の霊であることを鋭く自覚してゆきます。

自分の人生はいつ終わるのか、肉体を通した目では見当もつきません。しかし、気にすることもありません。いつ終わるかは、無意識に沈む霊的な自分はとっくに知っていることだからです。霊的な真理を知るものとして、この地上の旅を死ぬまで突き進むしかないのです。

私はこの人生に霊的な気づきを得たこと、そして苦しみ悩みの本当の意味を知ったことを有難く思います。あらためて、死ぬまで生きるしかないのです。

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