子供が亡くなるということ

人の死に早いも長いもありません。

先日、NHKのドラマ「透明なゆりかご」最終回を見て感じるものがありました。このドラマでは、産まれる子供が心臓に障害があり、産まれても現代の医学では治せる見込みの低いもので、両親は苦悩の末に積極的治療を選ばす自然に任せることを選びます。

私は産まれた子供がひと月半で亡くなった経験があります。生後すぐに障害が見つかり大病院へ緊急移送され、その数日後に開胸手術を受けたあと合計三回の開胸手術を受け、赤ちゃんの身体にはたくさんのチューブがつながれ、毎日NICUへ通い麻酔でずっと眠らされた子供と過ごしました。もちろん母乳を与えることも出来ません。

希望を持てた時期もありましたが、術後の大量出血なども経て、結局は肺炎による多臓器不全となり、最期は人工心肺のエラー停止を以て明け方にこの世を去りました。わが子を抱っこしたのは救急車に乗せる前と、亡くなってチューブを外して直後の二回だけでした。亡くなったとき、私は亡骸となった赤ちゃんを抱っこして、自然と「ありがとうね。また会おうね。」と大声で話しかけたのを今でも忘れることが出来ません。

世の中には同じようにお子さんを早くに亡くされる方は沢山いらっしゃいます。死産のため生きて抱くことすら出来なかった方もいらっしゃるでしょう。様々な辛い体験をされ方もいることでしょう。

私はこのサイトでお伝えするように、人は霊であり、自らが人生を選んで産まれてくる事を知りました。地上で過ごす人生に果たすべきものを携えて人は産まれてきます。

それでは、わが子は何を果たそうとして産まれてきたのか、なぜあのように辛くて短い人生を選んだのか? それは私にとっても常に命題となっています。

少なくともわたしにとって、わが子の生き死にからは、命とは何か? その先にあるものは一体何か? 人生とは何なのか? 様々な問いかけを呼び覚ますものとなりました。

今こうして生きること死ぬことにブログを始めているのも、霊的な真理に出会ったのも、わが子の死が無くてはあり得なかったことです。あの子の人生は、私にとってはまさに道しるべを与えてくれるスタートラインになりました。

しかし、そう理解して歩むまでの道のりは簡単ではありませんでした。様々な苦しみと悲しみがありました。乗り越えきれずに自殺を図ろうとする過ちも犯してきました。ただ、それらの長い道のりがあったからこそ、今こうして語る時を得ていると思います。

もしわが子の選んだ人生の目的の一つが、残された人間に生きること死ぬことへの道しるべを与えて、希望と勇気をもたらす事であったとすれば、それはわずかひと月半の人生を使った、とてつもなく勇気のある行為であり、心に影響を与えたのがたとえ私ひとりであったとしても、私が同じように生まれ変わるとしたら果たして選ぶかどうか自信がありません。それ程のことをあの子は果たしたのです。

もし私の地上的な欲望や利己心が勝ってしまえば、そのチャレンジは失敗に終わります。しかも、私は私なりの地上の人生を今も過ごしています。あの子が身を以て伝えようとしたことを、私は果たして活かしきれているのだろうか、そんな問いかけを私はいつも心に抱いています。

こうしてみると、人生に長いも短いも無いのだと、心から確信できます。それは与えられた時間の中で、何を成すか、果たすか、という事であって、わが子はその果たすべき事として、人の霊としての真実を学ぶように身を以て導いてくれたのです。その一点においても、私はわが子を人間として霊として、心から尊敬しています。

今相談された病気や不幸は死産、流産による水子のものだから、ぜひ水子供養を、なんて真っ赤な嘘です。わが子の骨つぼを墓に入れずにいつも仏壇に上げておくことも何の意味もありません。

すべてにはつじつまがあり、摂理があり、大切なのは残された人がそこから何を感じて学ぶかということです。それなくしては、親より先に亡くなった子供は本当に浮かばれません。

世のお子さんを早くに亡くされた親の方は、ともすれば子どもが長く生きられなかったことへの悲哀や育てられなかった無念から、長く哀しみや辛さに心を痛めている方も少なくないと思います。

その悲しみとは裏腹に、子どもは霊界に戻って後に元気に成長しています。親がその事を知らずに地上的な観念のみに囚われて嘆き悲しんでいるとしたら、人が霊であることすら理解できずに利己心と欲望にまみれているとしたら、どれだけの葛藤と悲しみを霊界に戻った子どもに与えているのか計り知れません。

霊界に戻った人にとって、地上に残された人達がいつまでも悲しみに囚われて嘆き続けることは、亡くなった人の霊としての成長を妨げることでもあるのです。

霊としての真理を知る今となっては、長く生きる事に何の魅力もありません。地上的なモノカネチカラのみに価値観を求めて、本来学ぶべき 与え合う心、霊としての自覚と意識 を全く知ることもなく、無為にご長寿と表彰される人生に何の意味があるのでしょうか。あるのは死後に訪れる無為な人生への深く辛い後悔だけなのではないでしょうか。まさに伊達に歳だけとった老人にだけはなってはならないのです。

その対角線上に、早くに亡くなる子どもたちが逆説として存在しているのです。彼ら彼女らは実はとても成熟した霊だったのではないでしょうか。それであるからこそ、親に一度も抱かれることもなく、自らの命を以てその親となる二人にぜひ知ってもらいたいことを伝えるためにこの地上に生を得て来るのです。

それは哀しみと苦しみ辛さを伴っています。お母さんの優しくて幸せなお腹にいるときから既に苦難に満ちた時間が予想されています。それでも敢えて産まれてくる子どもたちがいます。それは肉体的な障害であったり、望まれない妊娠だったりもするでしょう。

世のそうした子どもと向き合わなければならないお父さんお母さんには、他の子と同じように産まれてくることが出来なかったという事や、早くに亡くならなければならなかったという事の奥底に、そういう短い人生を敢えて選んだ子供達の勇敢で強い意図をわかってあげてもらいたいのです。

どうか今のこの悲しみや辛さのトンネルから抜け出て、子供たちの帰っていった空を見上げて真理を知る日が来ることを祈ります。それは子供の霊としての成長を応援することでもあるのですから、

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