死を喜ぶ

多くの人は、近しい人が亡くなると涙を流して悲しみます。死ぬことは普通は忌み嫌うもの、悲しむもの、それが当たり前と思って生きています。

本当にそうでしょうか? 人はもともとが霊であり、この地上の人生は、霊魂が肉体を通して自我を表現するための期間です。様々な経験体験を経て、肉体が劣化して壊れて動かすことが出来なくなるとき、それを死と捉えます。

肉体を脱ぎ捨てた霊魂である自分は、もと来た霊の世界へ帰って行きます。多くの場合、幽界霊界に戻ると、すでに他界していた人達がよく帰ってきた、よく人生を全うしてきたと、喜んで迎えるのです。帰ってきた人を迎えて悲しむ人は一人もいないのです。

人は産まれるときに、その人生で果たそうとする目的、目標を立てて、適した親を選んで産まれてくるといいます。人によっては、自身の成長、霊格の向上のために、様々な困難、障害を持つことを敢えて選んで産まれることを決めるのです。それは前世での自分のカルマを清算するためのものでもあります。

ですから、人が地上に生まれるときにこそ、霊界の人達は、体験するであろう不幸や障害から、その人のことを心配して嘆き悲しみ、別れを惜しむのです。この地上に生まれて人生を送ることは実はめでたいことではなく、とてつもない試練に飛び込んでゆく、その第一歩を心配し別れを悲しむ出来事なのです。

よく言われることに、「なんであんないい人が、こんなひどい目にあって、いい思いなんて無いまま、こんな歳でさっさと死んでしまって、この世には神も仏もあるものか。」とか、逆に「あんなに悪くてひどいことばかりしている奴が、財産や地位をほしいままにして、何のおとがめもなく長生きをして、挙げ句に立派な葬式までやって大きな墓に入るなんて。」とかありますね。

霊的な見方をすれば、様々に不幸を体験して、そんな中から人の役に立つことを心がけて、たくさんの人からは本心から感謝されて、財産や地位もなく地味に若くして亡くなって逝くということは、その人の霊魂が優れてた、その人は産まれる時に決めた人生の目的目標を果たすことができたのかも知れない、そう考えるのです。

むしろ、財産や地位に恵まれ、何の苦労もなくのうのうと時に楽しく人生を送って長生きまでした人は、地上の考えだけにとらわれた人からはうらやましがられますが、霊的には何も果たすこともなく、人に役立つこともせず、せっかくの地上人生を無為に無駄に終わらせてしまった人ということになります。

この人は恐らく死後に強く深く長い反省の機会を経て、また違う形で別の環境で生まれ変わり、この前世がカルマとなり、地上人生をやり直すことになるでしょう。

さらに悪事や悪徳を働いて人を不幸にしたり、それにより財産や地位肩書名声を得ていたとしたら、それ相応の埋め合わせが死後に待っていることでしょう。

霊的な知識を持たず死を迎えてしまう人はこの現在の地上ではほとんどの人が当てはまると思います。人は死んでもそれまでの性格、ものの考え方、理性、信仰はそのまま持って行きます。死に際して知識がなければ、元来た世界を信じることが出来ず、最悪は未練などから地縛霊となることもあります。

人の死に立ち会うとき、その人が過ごした人生の経験をねぎらってあげて、どうか幽界霊界へと歩まれるように意識を祈りを送ってあげてほしいと思うのです。そして悲しむのでなく、その人が幽界霊界に戻り、地上の人生で得た事を足がかりに、自身の成長、霊格の向上を果たすように、その人のために祈ってあげてほしいのです。

もうすぐお盆です。仏教の宗派によっては七月がお盆のこともあるかと思います。お盆はあの世から霊が家族の元へ帰ってくると言いますが、そんなことはないのです。霊はその気になればいつでも地上の人を見ていることができるのです。

お盆とは仏教的な縛りから離れて、純粋に霊的な見方をすれば、地上に残された家族親族が、あの世に戻った人を思い出し懐かしんで、気持ちを送ってあげるのが本来のものだと思います。

日本という国は昔から戦争や災害で沢山の人が亡くなってきました。先の大戦も東北大震災も、今回の水害でもそうです。しかし何故その時にその人が死ななければならなかったのかは、亡くなった方と神様、あの世の人のみが知っていることです。

人は肉体が滅んでも、その人の理性 意識 信仰は霊魂となった後も持ち続けるのです。死を通して地上の陰鬱な苦しみからは少なくとも解放されて、元の世界を歩まれているはずなのです。

故人の無念を悲しむことは、亡くなった人をあの世でかえって悲しませることになり、成長の歩みを止めることになります。亡くなった親しい人を思い出して、気持ちを送る習慣がお盆として残っていることは、日本のとてもいい部分だと私は考えています。

ですからこそ、その機会に死というものをもう一度見つめ直してもらいたいのです。死は本来は悲しむべきものではないのです。地上を生きる人からすれば、ただの通過点に過ぎないものだということです。残された人は、自身の地上人生を死ぬまで全うすれば、いつか必ずご自分の死後に会える機会はあるのですから。

涙を流して別れを惜しむのは仕方のない情緒ですから自然なものです。そこに加えて、どうかあの世でさらに成長の道を歩まれるようにと、心から祈って差し上げて欲しい。わたしは痛切にそう願うものです。いつか逢えるのですから。

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