墓は要らない

人生とは、霊魂が肉体を通して自我を表現するための地上の旅です。

これはシルバーバーチの言葉です。いつか肉体は壊れる時を迎えて、霊魂のみに戻りこの地上を去る時を迎えます。

人の死に際して、日本ではほとんどの場合に、お通夜、葬儀、火葬、納骨と、お葬式からお墓に入るまでの一通りの流れを踏みます。

遺族、知人友人は亡くなった人を悲しんで涙を流してお悔やみの言葉を述べて、家に帰る前の玄関でもらった塩を蒔いてお清めをしたりもします。

四十九日、年忌、お盆など、お墓参りをして、故人を偲び、お寺に行き焼香して手を合わせる人も多いのではないでしょうか。他の国は様々ですが、特に日本ではお墓や遺骨、骨つぼへの執着が特に強いように感じます。

ですが、お墓に故人の霊がいるのでしょうか?故人を偲ぶ懐かしむ気持ちがあるなら、いつどこで手を合わせて語りかけても、その故人は見ているのではないでしょうか。 つまりお墓なんて関係ないということです。墓や儀式やしきたりは所詮は人間が勝手にこしらえたものでしかないのです。

お墓は所詮、物です。お骨も故人の霊が使っていた乗り物であった身体の焼け残りであって、そこに霊はいません。「千の風に乗って」という歌がありますが、「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません。」という歌詞はまさにその事を示しています。

この曲はは9.11テロの後に作られたアメリカの詩を元にしているとされていますが、この地上にあって霊の存在を少しでも知らしめようとする霊界の働きかけのように思えてなりません。

故人にとって大切なことは、いつまでも嘆き悲しみ、悔しかっただろう苦しかっただろうと地上の人間がマイナスの気持ちを持ち続けることでは決してありません。嘆き悲しむ気持ちの中には、残された自分の寂しさや辛さを紛らわせたいという自己愛の部分を少なからず含んでいます。ですが、この気持ちは故人のためにはなりませんし、残された人間はそこに気づくべきでもあります。

霊が一旦、肉体を離れて、幽界霊界へ行ってしまえば、肉体的な苦しみからはすでに解放されていて、あるのは死の直前まで持っていた意識、精神のみです。残された地上の人間は、その心、気持ちに少しでも安らぎ、癒し、希望、そして道しるべが示されるよう、死後の人生の行く末を願ってあげること、そしてより高い境遇に進めるよう祈ってあげることです。いつまでもお墓やお骨にしがみついて嘆き悲しんでいては、故人は先へ安心して進めなくなるのです。

つまり、お墓やお骨、儀式にこだわり、ネガティブな観念ばかりの現代の在り方からさっさと脱却するべきなのです。死ねば人は霊魂のみに戻り、霊界で待つたくさんの人たちから、よく地上の人生を頑張ったと喜びで迎えられるのです。

墓や戒名、葬儀の豪華さ、何度も繰り返す年忌、そんなことにいくらこだわっても故人は霊界で喜びません。地上の人間の自己満足に過ぎません。

いつでもどこでもいい、心を込めてその人の霊界での歩みに幸あることを祈ってあげればいいのです。それさえあれば、葬式もお墓も要らないのです。

最近の終活流行りで、散骨、樹木葬、墓じまいが話題になりますが、それは地上に生きる日本人が実は少しずつ霊的に意識を進化させていることの表れなのかも知れません。

私自身も実家の墓に入るつもりはありませんし、葬儀もしなくてもどうでもよく、散骨で骨を残さないようにしておこうと考えています。私の代でこの無意味な物的な自己満足な在り方と、金儲け主義の寺社とのつながりは絶つつもりです。

何度も繰り返していますが、死は霊界へ人が帰るためのプロセスに過ぎないのであって、死そのものに葬儀や墓や骨壷を通してこだわる必要はさらさらないのです。

そんなことにこだわるより、人生でどれだけ他人のために自分を役立てたか、愛を持って人と接してこれたかを、自戒の念を持って考えるべきなのです。

人生は地上のみにあらず、死後も永遠に続くということに想いを致しましょう。

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