この世には神も仏もない

今この時代を生きる人は、様々な要因から不安を抱えています。自然災害や国家間の争い、社会不安、そして就職や親の介護、相続、人間関係等々の個人的なものまで、様々です。

では、不安の源は一体何なのでしょうか? それは自分自身に降りかかる困難、苦難、苦痛、生命の危機などへの不安や恐怖から来ているのではないでしょうか。

危機に直面した時に、信仰を持っている人は強いとよく言われます。宗教は人間を超越した存在である神仏を祀り崇め、神仏による救済や慰め赦しを求めて祈り願うものが一般的な形です。日本の仏教ではご先祖様もその対象に含まれます。

祈り、願い、すがり、救いを求める対象があることで、内面外面の苦しみに直面した時の人の立ち位置が変わってきます。宗教を信じない人は、人間の枠の中で乗り越えるよう頑張るしかありません。

信じる人はその度合いにもよりますが、神仏、場合により教祖やご先祖様に救いを求める事で、人間の力を超えた存在に助けを求めることが出来るのです。

しかし、ここで問題が起きます。こんなに祈ったのになぜこんなことに、なぜ自分だけがこんな事に、この世には神も仏もないものか!という嘆きです。これは、どうしてでしょうか。

自分や家族の不幸や挫折、災害や戦乱による惨状、遺体の山を目前にすれは、普段は宗教を意識しない人でもそんな言葉が出てくるはずです。いわんや、宗教を信じる人ならば、眼前に横たわる非情な現実から、神仏の解釈に戸惑いや混乱が湧き起こるでしょう。

一体、何を信じたらいいんだ!という嘆きは、ここに尽きます。こんなに祈ったのに、信じたのに、結局は何の救いも奇跡も起きなかった。神も仏もないもんだ、と宗教を去る人もいるでしょう。

それでも「それはあなたが心の平安を得るための一里塚になるもので、神様仏様はあなたを見守っていらっしゃいますよ」と、お説教するお坊さんや牧師さんはいると思います。

そもそも、人はなんのために祈り願うのでしょう。もちろん多くの人にとっては、身に降りかかる苦しみから解放してもらうためです。痛いのや苦しいのはまっぴらごめんなのです。楽な方が良いから祈るのでもあります。

さらに突き進んで、新年の初詣や合格祈願、会社の業績拡大、厄除けなど、現世のご利益を願ってさらに自己利益の追求に止むことがありません。でも。これは利己主義なのではないでしょうか。

入試を例に見ても、合格者の陰には不合格となって嘆き悲しむ学生とその家族もいるのです。そんなことを頭の片隅において、神社仏閣にお参りする人は果たしてどれだけいるのでしょうか。自分だけは是非とも合格させて下さい、力と運を下さいと、お参りしたり祈る人がほとんどではないですか。

こうした祈りや祈願は、利己主義と呼んでもいいと断言できます。果たして神様や仏様はそんな都合のいい願いを叶えてくれるものでしょうか。そして、そういった都合のいい願いを是として、お賽銭やお布施、礼拝の献金でお金を集める神社仏閣、教会とは一体何なのでしょうか? 是非とも疑問に感じてもらいたい事です。

私はかつて都内のキリスト教 教会で洗礼を受けたこともある身です。ナザレ人イエスの言葉や教えは宗教という枠を超えて信じるに値するものを感じています。今でもそうです。

ただ、当時のある日曜礼拝で、その前日に民族浄化による大量虐殺を新聞各紙が一面で報道していました。その一例として、大勢の家族共々が逃げ込んだ教会を戦闘組織は包囲し火を放ち、苦しみ這い出た人達を更に銃で撃ち殺したと、当時の報道にはありました。

それにも関わらず、その日の牧師の説教では一言も触れられず、締めくくる祈りでは、「この教会がこの世の苦しみからの信徒の隠れ家であり避難所でありますように」と牧師が大勢の信者を前に祈ったのです。

イエスならそんな事を果たして祈るだろうかと、その時、教会という組織に対して強い疑問と失望を感じました。それは他の信者に世界で起きている惨状について訪ねても全く関心がないか、知りもしなかったこともあります。

もちろん、NGOを立ち上げて世の中に向けて活動する宗教関連の団体もあります。しかし、それはごく一部に過ぎません。多くは礼拝や時折の法要や神事で手を合わせて祈りの形式を守り、それで自己満足しているに過ぎないのではないでしょうか。お説教や法話を聞いて、形ばかりのお祈りを唱えて、信仰していると自己満足に浸っているに過ぎないのです。

かつていた教会も「昔は外で布教活動をしたこともあったが、信者が思ったほど増えないのでやめた」と幹部が語っていました。聖書を勉強する会はあっても、言葉の解釈をあれこれ語るのみで、イエスの言葉を実践しようと行動する人は誰一人としていませんでした。教会の中の集まりも責任の押し付け合いや、仲良しグループ同士のつばぜり合いばかり。

そういった事を中で相談しても、「教会というのは人間の集まるところだから、それは仕方のないこと。」と、あっさり牧師が肯定していました。何か方向が完全に間違っている、そう確信しました。かなり有名で歴史のある教会でしたが私がキリスト教という宗教組織から離脱したのはそんな様々な理由からです。

人は何を信じたらいいのか?という問いに戻ります。それは、人がその死後も霊として生き続けるという事をまず信じることです。そこから本当の神様とは何なのかという地平線が見えてきます。この世には神も仏もない、という嘆きへの答えは至って単純なのです。

人はもともとは霊なのであり、霊的な成長を目指して、この地上に生まれ、生きている間に少しでも何かを苦難の中から学び、そして肉体の劣化と共に死を迎えて、再び幽界 霊界へ帰って行きます。このシンプルな有様を理性で理解して信じることです。ますはそこがスタートです。

そこから、初めて神様とは何かという問いを始めるべきです。そこに霊界もこの宇宙も人間世界も、すべての自然を司る本当の神様の存在があります。それは人の作り出した人間の姿をした神仏ではありません。人智を超えた存在です。霊界にいる人達ですら霊言の中でそう述べています。

人は他者の為にこそ祈るべきなのです。世の中の救いを必要とする人の役に立つことを願うべきなのです。そして、人は霊であることを教え、慰めと癒しを与えることの出来るようになりたいと願うことです。自分が多くを得ることよりも、人と分かち合う事を願うことです。

今、直面する苦しみ、将来起きるかも知れない事の恐怖や不安は、自分が霊であり、肉体は自我を表現するための道具に過ぎない事を認識すれば、その苦しみにも、霊的に成長しカルマを清算する意味があり、今まで苦しみを避けて通れるように祈ったことの浅はかさ、エゴイズムの醜さに気づくでしょう。

なかなかそうはできるものではないことは、もちろんわかります。日々の暮らしの中で、通勤通学の混み合ったラッシュ時、生き馬の目を抜くような職場で、悩ましい事ばかりの学校、ママ友やPTAの人間関係の中で、血縁関係の問題の中で、しばしば人は利己主義と物金至上主義の波にのまれてしまいます。しかし、現実として生きるこの地上の毎日の本来の目的は何なのかを、自分も含めて忘れないで暮らしてゆく事が大切なのです。

この世界には、世の宗教団体の示す神仏などいないのです。それは人間が作り出したものであり、人が本来の神様を理解して近づく為に与えられた物的な道具でしかなく、同時に人間の利己主義がはびこりやすい存在でもあることをよく理解すべきです。

イエスは霊的な意識革命をこの地上にもたらす為に生まれてきた「人」であり、霊なのです。仏陀もマホメットもやはり人であり霊なのです。

私は宗教団体を誹謗中傷するためにこんな事を書いているわけではありませんが、既存の宗教組織を肯定するつもりもありません。もちろん特定の宗教組織へ誘うものでは断じてありません。あくまでもシルバーバーチの霊訓を中心とした霊的真理と利他愛の教えを自分の理性で受け入れて、こう述べているまでです。

この世にはご利益と苦しみからの解放をもたらしてくれる神も仏もないのです。

世界は一段と社会的な不安の高まる安定性のない時代に突入しています。それは、何のために自分は生まれそして死んでゆくのか?という問いに対する明確な答えが求められる時代でもあります。

その答えとなるのが、ます自分を霊として認識し受け入れて信じることなのです。

あなたの心に希望と導きがありますよう、お祈りいたします。

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