戦没者 英霊に想う

広島 長崎の原爆の日を経て、もうすぐ8月15日終戦の日を迎えます。

ニュースで目立って取り上げられるのはこれらの記念日ですが、終戦を迎えるまでに多くの空襲を迎えた各地の記念日、沖縄、硫黄島、グアム、サイパンなど多くの島々の玉砕の日もあるのです。

これら記念日は、すべて戦争により亡くなった方々を前提にしています。主だった記念日には多くの人が集まり、式辞を読み上げ祈りを捧げます。

戦争、核兵器をなくしたい、そう思って祈る人、様々なイデオロギーから戦争を捉えて祈る人、いろんな人が様々な立場を抱えて集まります。

しかし、式典の時間が過ぎれば、その日が過ぎれば、当日の気持ちは徐々に薄まり、いつもの日常に戻ってゆくのでしょう。人の心とはそのような移ろい、浅はかさを持ち合わせています。

戦争とは人間の生み出す最も野蛮な害悪です。しかし、戦場で倒れ、職務として散り、戦火に巻き込まれて亡くなった人は、すべてとはいえないないにしても、その国その民族の正しさを信じて死を迎えるに至ったのではないでしょうか。また、敵を倒さなければ自分が殺されるという極限状態におかれた人間は、訓練で叩き込まれた事をひたすら行って、相手を倒すことしか出来なかったと思います。

国家、民族、政府の上層部に属して、戦争に対して国民に行う教育、宣伝を操った人間は別として、真面目に職務や極限的な自己生存欲求の中で亡くなった人に、どの国、民族であろうと罪はないと考えます。

戦陣に死し、職域に殉じ、非命に倒れた人々は、個々人の差はあれ、いずれ霊界に戻ります。戦死された人達は、戦争というものが人間の持つ利己主義の極致であり、あれほどまでに死命をかけてあたったものが、これほどまでに意味のないものだったことを、肉体を脱ぎ捨てた後に沈痛な気持ちで受け止められている事でしょう。これはかつての大戦の後にシルバーバーチも語っていたことでもあります。

特攻隊として体当たり攻撃で南海に散っていった多くの英霊は、一体どんな気持ちで死後を迎えたことかと思います。彼らは国家、民族、そして身近な家族を護りたいという気持ちを持って、従容と決死の任務に当たり、本当は生きたかった気持ちに整理をつけて、戦死されています。決して自殺ではありません。また、今日の自爆テロのような脅迫され洗脳された死ではありません、もちろん自殺などではありません。立派な自己犠牲の精神を後世に残されたのです。

今を生きる私達は、無論 戦争を起こすことは避けなければなりません。同じような体当たり攻撃をすることは、戦死された方々は決して望んではいないはずです。

毎年、八月が近づくにつれて終戦について思い起こすムードがメディアに現れて、終戦記念日の終わりと共に、何事も無かったかのように、消えてゆきます。戦争で亡くなられた人達は、その事を本当に悲しんでいるのではないでしょうか。

今の日本は周辺の国々が好戦的な行動に出て、望まざる形で、国土防衛を増強せざるを得ない状況にあります。日本が戦争を放棄しても、戦争は日本を放棄してはくれないのです。

こんにち、国防を放棄して無防備とする決定をどこかの国が行えば、おそらくその翌年には他国がやすやすと占領してしまうでしょう。世界はそれ程成長していないのです。攻撃されて国土、国民、国益が侵されない為に必要な準備を怠らす、戦争を起きなくても済むようにするのが、軍隊の役目だと思います。

無論、これは戦争自体を単純に肯定するものではありません。人間は戦争という害悪をもたらす最悪の行為を何度か繰り返す事を通じて、もっと成長しなければならないのです。国家間の争いが結局は人間の利己心から来るものであることを国の指導者が悟り、反省すること、それがスタートです。

国と国同士が、腹の探り合いや、裏取引、抜き打ちなど、つまらない事に時間をかけず、利他愛に基づいた精神でお互いに助け合えるよう、その底辺で毎日を暮らす人間一人一人が利他愛を心がけてることが、人類を成長させることになります。

もともと人は皆、肉体を脱ぎ捨ててしまえば、霊界幽界に戻る存在なのだ、死とは出入り口に過ぎないのだとわかれば、霊的な意識が普通の意識になれば、戦争など意味のないこととして、時代の遺物になることでしょう。

8月15日の終戦の日は、特に人間の行う戦争について考え、いかに生きるべきかを、あらためて我々に問いている日でもあるのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA